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2011年3月11日に発生した東日本大震災(3.11)から1年が経とうとしている。
【詳細画像または表】
3.11によって社会、個人、人間関係、消費生活、メディアとの接し方、ものの考え方などがどう変化したのか。1年が過ぎて、元に戻るもの、戻らないものは何か。この連載では、さまざまな「3.11の現場」の当事者に聞くことで、この先、消費や生活の基軸がどのように変化していくのかを明らかにしていきたい。そしてシリーズ第1回目に登場するのは、食品販売のネット通販を行うオイシックス(東京都品川区)社長、高島宏平氏だ。
2000年の創業以来、増収を続けているオイシックスは、もともと有機・無添加食品、安心・安全な食品を提供するとして、確実にユーザーを増やしてきた。3.11後は、被災地にいち早く支援物資を提供するなど「東日本復興支援活動」と銘打ち継続的な支援活動を行っている。一方で、ユーザーの不安を取り除くべく、早期に放射性物質に対する検査も実施。
そして高島氏は、東日本の食の復興と創造の促進および日本の食文化の世界への発信を目的とした「東の食の会」の代表理事も務め、積極的にソーシャルな活動をしていることでも知られる人物だ。その高島氏は今、3.11をどう感じているのだろうか。
食品はライフラインに関わる。だから大切なのは、業務を止めないこと
──東日本大震災発生時はどちらで何をされていましたか?
オイシックス高島宏平社長(以下高島):会社にいました。食品を販売するという業務の関係もあり、当社にはキッチンや食器棚も装備されていますが、その食器棚が壊れそうだったため、とっさに押さえてしまいました。同時にこれまでに経験したことのないものだと感じたため、この場から避難するべきか否かを判断するべきだと考えました。 本社があるビルは、直下型でない限り倒壊はしないと考えたので、まず行ったのは外部からの情報収集と社内の状況の確認です。また災害に際し、パニック状態に陥るなどして人災が起きてはならないので、社員に対し、自分が笑顔で落ち着いていることも心がけました。
──具体的な現状把握の方法は?
高島:当初、即時に状況把握が必要だと判断したのは本社および店舗と配送センターという弊社の拠点です。 社内の点呼をし、神奈川県・海老名にある配送センターおよび恵比寿の店舗に連絡を取りました。恵比寿は当初連絡がつかず、本社から徒歩で確認しにいくこととなりましたが、海老名は比較的早くに情報を得ることができました。どちらもその時点で、安全上懸念されるような事態には至っていませんでした。 次に、産地の生産者、特に東北の生産者の把握です。当然、連絡手段が絶たれた状態。この事態が復帰するまでには時間を要することも分かってきました。 その後は社員に帰宅命令を出すかどうかを検討。無理な帰宅はかえって危険です。そこで、子供を迎えにいかなければならないなど優先的に帰宅をしなければならない事情のある人と、それ以外の人を分けて考えることにしました。基本的には社内に残る方が安全ですから。帰宅する社員にはなるべく集団帰宅してもらうようにし、自宅到着後の社への連絡を徹底しました。 また社では、暗い気持ちにならないように、気合いを入れた炊き出しをしていました。
──すぐに直面した問題は?
高島: 当日は、現状把握で精一杯。現実味を帯びたのは翌日以降でした。なにより大きな問題は物流の混乱でした。 3月11日の時点で仕分けをして出荷をした荷物が、運送会社側で受け入れられず、翌日に箱ごと戻ってきてしまうという事態が起きてしまった。その単位は何千個。復旧のめども立ちません。しかし我々が扱うのは食品です。できる範囲で自社のトラックを使うなど輸送手段を確保し、配送に入りました。 ただし同時に仕入れ物流など、仕入れに関する混乱も起きてきました。産地に連絡がつかず、仕入れができないこともわかってくるわけです。しかも、産地が東北の食品だけではなく、九州の水が支援物資として確保されるなど、入手困難な事態が多発したんですね。 追い打ちをかけるように、東京電力福島第1原発事故が起きました。もはや3月12日の時点で食品の汚染問題が起きるだろうということが想定されたので、食品の放射性物質検査機器の手配を開始しました。検査をしてから出荷するという体制は、安心、安全を謳う食品販売の会社として、一刻を争う問題だと考えたのです。簡易な検査ではありましたが、スピードを重視してやるべきだと判断しました。 物流に関しては、その後、「計画停電」の問題にも直面しました。海老名の配送センターは、計画停電第1グループの区域に入っていました。これにはあわてました。なにしろ扱うのは食品ですから、冷蔵庫の電源確保はもちろん、配送作業は暗い中ではできません。 しかも、配送センターには運送会社から戻ってきた荷物も何千個と積まれている。その状態での作業は本当に困難を極めます。そこで、早々にかき集めておいた懐中電灯をクルマに積み、どのように組み合わせたら灯りを確保できるかを考え、3時間なのか、場合によっては6時間にまで至ると言われた計画停電に対応する方法を考えました。ただ当初の開始予定の日、実際には計画停電にはならなかったので、その間に取引のある農家さんなどに連絡をし、自家発電装置の貸し出しをお願いしましたね。 なにより大切なのは、業務を止めないことでした。弊社の仕事はライフラインに関わるものですから。
──被災地への対応も迅速でしたね。
高島: 物資支援は急ぎました。オイシックスでは、3月13日の日曜日から支援を始め、当初は宮城県内の3カ所に支援物資を届けました。1t以上の飲料水や1万本以上の健康飲料、加工しないでも食べることができるシリアルやチョコレートなどの食糧支援を実施しました。 なぜすぐに行動したのかといえば、その時点で自分たちに生命の危機はないと考えたからです。それならば、会社の業務を止めない範囲でできることは、しっかりやっていこう。我々は普段から食品の仕事をしていますし、東北地方には仕入れ元も多くありますから、すぐに行動することにしました。
安心と安全が乖離した状態
──震災から1年が経ちますが、この1年で、どのような変化があったと感じていますか?
高島: まず、食べ物の安全、安心に関する意識が変わったでしょう。オイシックスの利用者からも、放射性物質に対する不安が寄せられるようになりました。 もともとオイシックスは「安心安全な食品」を掲げています。ただ安全と安心は、乖離しているものです。科学的に安全だからといってそれがイコール安心かというと、必ずしもそうではない。震災前でもそうした傾向はありましたが、震災以降はそれがより強くなりました。つまり、心理的不安を訴える方が増えた感がありますね。この「不安」という状態は体にも良くありません。ですから流通業者として、安全のために頑張るだけでなく、安心のために頑張る必要があります。
──具体的な対策は?
高島: 震災直後の3月12日から検査機器の手配をし、3月18日から検査を開始しました。現在はより厳しい基準を設けています。 すでに厚生労働省は2012年4月に施行される、食品に含まれる放射性セシウムの新基準値を発表していますが、これを前倒しして2012年1月19日より新基準での検査をスタートしました。具体的には、青果、肉類、鮮魚類などにおいて、従来の暫定基準値の1/5にあたる100Bq/kgを適用しています(乳児用食品・牛乳は50Bq/kg、飲料水は10Bq/kg)。 また、「ベビー&キッズコース・商品」として放射性ヨウ素および放射性セシウムを検出しない(検出限界概ね5-10Bq/kg) 商品も販売しています(関連情報)。ソーシャルな活動を積極的に行う
──では世の中の変化はどうでしょう?
高島: 大事にするものがクリアになってきたと思います。 例えば、私の周囲では、外資コンサルや外資金融から転職する人、高収入の業界を離れ、本質的に世の中の役に立てる仕事をしたいと考える人が増えました。転職を考えたり、政界への出馬を考えたり……つまり「いつかはやろう」と考えていたことに対して、「今やらなければ」というエネルギーが生まれやすくなった。そういう1年だったのでしょう。 私自身は、もともとオイシックスをやりながら「TABLE FOR TWO」にも参加しています。これは2007年秋に日本でスタートした特定非営利活動法人で、「先進国の私たちと開発途上国の子どもたちが、時間と空間を越え食事を分かち合う」というコンセプトのもと活動するものです。ヘルシーな食事をとることで自動的に開発途上国の子どもへ学校給食をプレゼントできる、「TABLE FOR TWOプログラム」を核とし、キャンペーンやイベントを定期的に行っています。オイシックスでは、このTABLE FOR TWO認定商品を販売し、それを購入したお客様にヘルシーな生活をしていただきながら、手軽に無理なく社会貢献できる環境を整えています。 こうしたソーシャルな取り組みには以前から意欲があったのですが、震災後には、カフェ・カンパニーの楠本修二社長と私が代表理事となり、「東の食の会」を設立しました。これは、東日本大震災で被災した生産者の復興を支援する団体です。被災した食品生産者と販売事業者、外食事業者とのマッチングを行い、また、資金援助、販促イベントの開催、行政への提言などを行っていきます。 すでに「東の食の会」初プロデュース商品「復興枝豆」限定500個を販売したり、神保町にオープンした風評被害に取り組む飲食店「FUJIMIZAKA」が東北の食品を積極的に取り扱うなど、取り組みは広がっています。 なお、東の食の会はオイシックスとは別の組織ですが、その支援活動に積極的に取り組んでいます。
行政とそれ以外という民間の領域があいまいになった
──個人としての変化はどうでしょうか?
高島: やはり、何か一つのことに特化してやっていくというよりは、ブルドーザーのごとく、すべてのことに対して取り組んでいくという姿勢になったことでしょうか。「全部やる」という姿勢でいても、1年くらいは体も持つだろうと考えたんですね。 私自身は、精神的には特に何も心配していないのですが、肉体的な限界はありますから。また、ソーシャルな活動に力を入れるあまり、会社が損失を被るようなことがあってはならない。その両立を含め「全部やる」姿勢になりました。 震災後、今の日本においてしていくべきことが、「復興」なのか「創造」なのか。つまり、被災地および社会の復興を目指すのか、あるいは“作り直し”という進化なのか。そのもの自体を考える必要性があると感じています。その中で、私自身はよりソーシャルな活動にも積極的になりたいと思っています。
──「TABLE FOR TWO」や「東の食の会」だけでなく?
高島: はい。2011年には東の食の会のほかに「BEYOND Tomorrow」という教育支援グローバル基金の代表理事も務めるようになりました。こちらは学資支援に終わらない、包括的なリーダーシッププログラムを提供するものです。 どちらも、本質的に意味があることをして、その地域を作り直す進化につながったらいいなと思っています。 変化という意味では、行政とそれ以外という民間の、領域があいまいになったことも大きいですね。実際に枠を超えた連携する機会も増えました。 すでに「東の食の会」では、海外メディアを20社ほど招待して、日本の食の安全の現状についてのアピールするカンファレンス「食の産業サミット2011~東の食の福幸(復興)に向けて~」を2011年11月30日、宮城県仙台市の仙台国際センターで開催しています。これは、東の食の会が主催し、共催として経済産業省、後援として農林水産省が名を連ねるものです。 このカンファレンスは、ある意味とてもリスキーでした。カンファレンスの内容がシャビーであれば、「日本の食には不安が残る」という情報が発信されてしまう可能性もあるわけですから。 実は日本の食のために何かを発信するということは、私個人やオイシックスという会社にとって益のあることではなく、本来は国が発信していくべきことなのではないかという議論もありました。もちろん震災前であれば、この点に関し、もっと慎重だったと思います。しかし今はそこを議論すべき時ではない。元気な人、動ける人が動くべきだという時代だと思うんです。 ですから今後は、あらゆるものの領域の境界線は、引きなおされていくでしょう。それであれば、行政、民間、個人などの領域にとらわれず、やるべきか否かでやっていこうと考えています。
震災は世界からは忘れらていく。だったらこの“チャンス”を生かす
──では、1年が経ち、元に戻るものはあると思いますか?
高島: ポジティブにもネガティブにも考えられますが、確実に戻っていくことの中に、「海外からの関心」があると思います。 あの瞬間、間違いなく、日本は世界中から注目を集めていました。今も、まったくないわけではありません。しかし世界では、この1年だけを見ても、震災以降、あまりにもいろんなことが起きました。4月には米国南部で竜巻という大規模な自然災害が起き、5月にはオサマ・ビンラディン容疑者が殺害され、2010年12月のアラブの春に始まったエジプトやリビアの騒乱、ノルウェーでは連続テロが起き、そしてギリシャ経済危機に端を発する経済不安……。非常に忙しい1年だったんです。 確かにまだ今は、この10年、20年の中で最も世界が日本に注目しているタイミングだとは思います。しかしそれは元に戻り、次のイシューに移って行ってしまう。 つまり、チャンスはいつまでも続かないということ。世界の目が元に戻る前に、日本がいかに正しい将来像を描けるか。発信をしていけるか。それが大事だと思っています。 おそらく当人たちが考えるほどには、海外から見れば日本人は「かわいそう」ではないですし、「汚染されている」と思われているわけでもないと感じています。ただそれは、認識しなおされたというよりは、単に、忘れられてきているだけなんです。 その自覚を持って、チャンスを生かしていきたいですよね。
──では逆に、戻らないものについてはどう考えますか? 物理的なものもさることながら、精神的なものについてはいかがでしょうか?
高島: たいがいのものは、元には戻らないでしょう。 あえて、良い方向で戻らないものを考えるのであれば、多くの人が人として成長したことです。自分たちのキャパシティーを、はるかに超えるチャレンジをしていく人が多かったのではないかと。これは、私自身も感じていることですが、特に、若い人たちの「成長」です。 学生や社会に出たての人たちは、どんどん被災地に入り、チームを作りリーダーシップを発揮する人が自然に生まれた。首都圏から現地に赴く人もそうですが、現地でも若い人が目立って活動していました。彼らがこの震災を機に成長したという事実は大きい。 彼らは「元に戻る」ことに物足りなさを感じるでしょう。修羅場の中で成長した彼らは、元に戻ることなく良い方向でより大きな舞台を求めてチャレンジし続けるのではないかと思います。
──先ほどのお話にもありましたが、行政や民間といった領域の境目が変わったり、若者の意識が変わるなど、こうした変化は拡大すると思いますか?
高島: そうですね。私が被災地に行って感じるのは、いわゆる「ヒューマンリーダー」が明確になったことなんですね。 現地で「このエリアのリーダーは?」と尋ねると、地域ごとにはっきりしてくる。それまでであれば、〇〇長と呼ばれるような、肩書きの付く長がいたと思うんです。しかし、震災を機に、「ここでは、20代続く農家の〇〇さんがいいよ」「ここなら、県の職員の副課長の〇〇さんが頑張っているから彼のところにいくといい」「ここは漁協の息子さんがすごくまとめているんで」というような、今までのヒエラルキーとは異なるナチュラルリーダー、ヒューマンリーダーとでも呼ぶべき存在がコミュニティーごとに現れるようになりました。不思議なことにそれは、地域ごとなら誰に聞いても同じ名前が上がるんです。 誰の下に集まれば一番いいのかということが、極限状態の中で判断され、その人が立ち上がったのでしょう。本当の意味での強いリーダーがはっきりしたということ。これはとてもポジティブなことだと考えています。 この、今までの枠組みをフラットにし、自然な形で新たに構築されていくという動きは、拡大していくと思います。 私自身は、基本的にポジティブなことしか見えないので(笑)、この動きの中で、これからもポジティブに活動していきたいと思います。
オイシックス 高島宏平氏の〈絆〉の次に来るもの「絆から手綱へ」インタビュー中にもあるが、高島氏は「これからはリーダーが必要」と考えている。“絆“でつながった人々の中から、次は、周りを引っ張っていく存在、“手綱”を引いていくことができる存在が必要になる。その思いの込められた言葉だ。
(文/山田真弓=日経トレンディネット)
(この記事は社会(nikkei TRENDYnet)から引用させて頂きました)
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