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 「原子力は爆弾にもなるが、科学者を信頼して、怖いものを研究して新しい技術を育てるのも大事じゃないか」。1956年4月に日本原子力研究所(原研)の立地先に東海村が決まった直後、川崎義彦村長が、小学校や集会所で各行政区ごとに住民に対する説明会を行った。川崎村長は後に「原研誘致を実現し、東海村を原子力開発の発祥の地とした」として名誉村民に選ばれる、原研誘致の立役者だ。

 村役場で臨時職員として働いていた須藤佐武さん(77)は、養蚕業を営んでいた父、六郎さんが説明会に参加し、帰って語った言葉を思い出す。「農村ではやっていけない。とにかく施設を造らないと。原研誘致を機に、新しい生活をしよう」

 原研は立地決定から2カ月後の56年6月、それまでは子どもの遊び場だった松林を切り開いて建てられた。村に集まる原子力研究者の中には、リュックに缶詰やウイスキーを詰め込んで来る人もいた。「そのくらい、何もない所と思われていた」(須藤さん)

 57年8月、原研の研究炉JRR-1が臨界。「国内初の『原子の火』」と大きく報道された。村は原研内でスイッチの模型を作り、くす玉を割るセレモニーを開催。住民はサツマイモ掘りで忙しく、あまり集まらなかったが、県職員や首長ら約100人が参加して祝った。

 東海村は1955年に旧村松村と旧石神村が合併して誕生した。人口約1万1600人。就業者数約5700人の約75%が農業を営んでいたが、原研発足後は、農業から原研に転職する人が相次いだという。

 原研発足の翌57年には、原子燃料公社(原燃、後の動燃)の精錬所(後の東海再処理施設)、日本原子力発電(原電)の発電所と、次々に東海村への立地が決定。「松林とサツマイモ」の村から「世界の東海」へ。「原子力発電は電気がただになる」とのうわさまで飛んだ。最初は海側の旧村松村地区に集中し、道路などの環境整備が急速に進展。後に続こうと山側の旧石神村地区も誘致を図り、関連する民間企業が入り込んだ。村は急速に変貌(へんぼう)を遂げていった。

 両親がイモ、麦、米などを作っていた大内与志郎さん(71)は「原子力には将来的な希望がある」と原燃に入った。「ウランしか扱っていなかったし、危険だとは思わなかった」と話し、原発事故後の今も、考えは大きくは変わっていないという。「原子力があったから栄えたんだ。たまたま福島で事故があったけど、安全さえ担保されれば東海第2原発は動かしてもいいんじゃないか」と話す。

 一方、須藤さんは昨年3月の東京電力福島第1原子力発電所事故の際、「東海第2原発はどうなってるんだ」と危機感を覚えたという。「原子力関連施設がないと村の財政は成り立たない」としながらも「東海第2原発が止まっても研究施設があるから大丈夫」と指摘。「国内の原発を廃炉にする時も原研・動燃の研究が役に立つ」と話し、原発以外の原子力研究拠点の道が望ましいとの考えを示す。【杣谷健太】=つづく



1月3日朝刊





(この記事は茨城(毎日新聞)から引用させて頂きました)



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