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海外進出のためのネットワークは、日本人同士でしか構築できないものではない。
◆助教授を引き抜き
「日本と中国、それぞれの産業の長所と短所を理解したうえでお互いが補完できるようなネットワークを構築していくのが、私の経営理念です」
こう話すのは、機械商社「東方貿易」(大阪市)の郭越悦社長(56)だ。
月のうち半々ずつを日本と中国で暮らす郭氏は、上海でもエンジニアリング会社などを経営し、グループで年商40億円を稼ぎ出す。
郭氏は日中の産業界に太い人脈を持つ。郭氏の存在自体が、「東龍日聯(丹陽)企業管理有限公司」を設立した東和男氏と同様に、ネットワークの「ハブ」といえよう。
郭氏のこれまでの人材獲得の手法が興味深い。日本に留学経験がある中国人の日本研究者を引き抜き、子会社のトップに起用することが多い。そうした人材なら、主要顧客である日本企業や日本人の特性を把握していると同時に、中国人従業員も使いこなせる能力を持つと考えたからだ。
郭氏自身、上海の名門、復旦大学外国語学部日本語学科で学び、北京の社会科学院に移って「現代西洋哲学の日本への影響」のテーマで修士号を取得した。その間、日本に留学し、大学教授になるはずだった。が、中国の外に出ると「研究よりビジネスが面白いと感じ、1988年に個人事業で商売を始め、91年に東方貿易を起業した」(郭氏)という。
郭氏のネットワークは、そこから広がってゆく。日系企業向けのエアコン部品などを製造している蘇州日東平盛精密機械製造の労錦徳社長(57)もその一人。87年から5年間、慶応大学大学院で日本文学を学んだ。帰国後、復旦大学の助教授に就任。その後98年、復旦大のクラスメートだった郭氏にヘッドハントされた。
治具製造や機械メンテナンスが主な事業の上海日東平盛精密機械製造の周平社長(57)も横浜国立大学や駒澤大学に留学後、復旦大学助教授(日本史)として吉田茂の研究などをしていたが、労氏同様に郭氏に誘われビジネスの世界に転じた。東方貿易に転職後、日商岩井(当時)の名古屋支店に出向して工作機械の輸出を担当、そこで機械産業でのノウハウを学んだ。今でも月に1回のペースで日本に出張し顧客回りをする。
上海佐竹冷熱制御技術は、家電製品や自動車部品の試験装置の開発・生産会社。納入先には日立製作所やパナソニックなどそうそうたる顔ぶれが並ぶ。
◆胸に「5S」バッジ
社長の杜軍氏(41)は、一流の技術系大学である上海交通大学の出身で、現在はMBA(経営学修士)取得を目指している。彼も、郭氏が見いだした逸材の一人だ。日本への留学経験はないが、日本企業の価値観を理解できるように郭氏が徹底的に指導し、“カスタマイズ”した人材といえるだろう。今では株式を持たせ、雇われ社長ではなく、経営に参画するという意識ももたせている。
「今は日本企業向けの売上比率が落ちていますが、日本企業の品質管理を学んだことで、欧米や地場企業からの評価は高くなった。日本の強さと中国の強さを融合させて新しい強さを生み出す経営をしたい」と杜氏は話す。
胸には整理、整頓、清掃、清潔、しつけを意味する「5S」と書かれたバッジが付けられていた。社内を見回すと、経営理念として「小さな成功は個人によるもの 大きい成功はチームワークによるもの」との紙が貼られているのが目につく。それぞれ、日本的経営の象徴ともいえる理念である。
上海佐竹は2007年に4億円だった売上高が11年は10億円にまで伸びた。経常利益率は2桁台を維持。すでに親会社の日本側に累計で7億円配当した。
郭、労、周、杜の各氏に共通するのは、いずれも大の親日家ということだ。そして、そうした親日家たちを発掘し、現実のビジネスの場に持ってきたのは日本人ではなく、中国人だった。
東氏の「日僑待望論」を引き合いに出すまでもなく、グローバル化に際してのネットワークの重要性は明らか。だが、きっかけは、案外目立たないまま、足元に潜んでいるのではないか。
郭氏は、東方貿易グループの事業拡大だけでなく、「中国に進出する日本の中小企業がしっかり利益を出せるように指導するビジネスにも挑戦したい」と言う。すでに用地を取得し、民間投資会社との共同出資で工業団地運営企業を07年に設立している。
こうした「日中の懸け橋」的存在をどこまで生かせるかは、いや応もなく海外進出という荒波に巻き込まれつつある日本の中小企業にとって、重要な課題となる。
◇
■内陸シフト、対中投資第4次ブーム
日本の対中直接投資の推移は、一般に4つの段階に分類されることが多い。
第1次ブームは1980年代後半から始まった。投資誘因は、もっぱら安くて優秀な労働力。日本で円高が進行する一方、中国では経済特区や外資優遇策が整備されたことが、ブームを生んだ。進出先は、積極的な誘致策を取った大連などが中心、主な業種は繊維、雑貨、食品加工などだった。
第2次ブームは90年代前半からアジア金融危機が吹き荒れる97年ごろまで。電気・機械メーカーが生産拠点を中国に求める動きが活発化し、対中投資は急激な伸びをみせた。香港の後背地でもある珠江デルタが脚光を浴びたのもこのころ。
第3次ブームは、2001年の中国のWTOの加盟を契機にさまざまな規制が緩和された2000年代前半から始まった。生産拠点としてだけでなく、販売拠点としても位置付けられ、進出業種も自動車、電気、機械、化学、さらには研究開発拠点としての位置付けもされるように。地域的には、上海の急激な発展に呼応するかたちで、長江デルタが中心となった。
そして、リーマン・ショックを経て、第4次ブームの到来かと指摘されているのが現在だ。環境技術をはじめ先端技術が集まる。コスト面での優位が薄れた沿岸部から、内陸部へシフトしつつあるのも特徴だ。
(この記事は経済総合(フジサンケイ ビジネスアイ)から引用させて頂きました)
集客
◆助教授を引き抜き
「日本と中国、それぞれの産業の長所と短所を理解したうえでお互いが補完できるようなネットワークを構築していくのが、私の経営理念です」
こう話すのは、機械商社「東方貿易」(大阪市)の郭越悦社長(56)だ。
月のうち半々ずつを日本と中国で暮らす郭氏は、上海でもエンジニアリング会社などを経営し、グループで年商40億円を稼ぎ出す。
郭氏は日中の産業界に太い人脈を持つ。郭氏の存在自体が、「東龍日聯(丹陽)企業管理有限公司」を設立した東和男氏と同様に、ネットワークの「ハブ」といえよう。
郭氏のこれまでの人材獲得の手法が興味深い。日本に留学経験がある中国人の日本研究者を引き抜き、子会社のトップに起用することが多い。そうした人材なら、主要顧客である日本企業や日本人の特性を把握していると同時に、中国人従業員も使いこなせる能力を持つと考えたからだ。
郭氏自身、上海の名門、復旦大学外国語学部日本語学科で学び、北京の社会科学院に移って「現代西洋哲学の日本への影響」のテーマで修士号を取得した。その間、日本に留学し、大学教授になるはずだった。が、中国の外に出ると「研究よりビジネスが面白いと感じ、1988年に個人事業で商売を始め、91年に東方貿易を起業した」(郭氏)という。
郭氏のネットワークは、そこから広がってゆく。日系企業向けのエアコン部品などを製造している蘇州日東平盛精密機械製造の労錦徳社長(57)もその一人。87年から5年間、慶応大学大学院で日本文学を学んだ。帰国後、復旦大学の助教授に就任。その後98年、復旦大のクラスメートだった郭氏にヘッドハントされた。
治具製造や機械メンテナンスが主な事業の上海日東平盛精密機械製造の周平社長(57)も横浜国立大学や駒澤大学に留学後、復旦大学助教授(日本史)として吉田茂の研究などをしていたが、労氏同様に郭氏に誘われビジネスの世界に転じた。東方貿易に転職後、日商岩井(当時)の名古屋支店に出向して工作機械の輸出を担当、そこで機械産業でのノウハウを学んだ。今でも月に1回のペースで日本に出張し顧客回りをする。
上海佐竹冷熱制御技術は、家電製品や自動車部品の試験装置の開発・生産会社。納入先には日立製作所やパナソニックなどそうそうたる顔ぶれが並ぶ。
◆胸に「5S」バッジ
社長の杜軍氏(41)は、一流の技術系大学である上海交通大学の出身で、現在はMBA(経営学修士)取得を目指している。彼も、郭氏が見いだした逸材の一人だ。日本への留学経験はないが、日本企業の価値観を理解できるように郭氏が徹底的に指導し、“カスタマイズ”した人材といえるだろう。今では株式を持たせ、雇われ社長ではなく、経営に参画するという意識ももたせている。
「今は日本企業向けの売上比率が落ちていますが、日本企業の品質管理を学んだことで、欧米や地場企業からの評価は高くなった。日本の強さと中国の強さを融合させて新しい強さを生み出す経営をしたい」と杜氏は話す。
胸には整理、整頓、清掃、清潔、しつけを意味する「5S」と書かれたバッジが付けられていた。社内を見回すと、経営理念として「小さな成功は個人によるもの 大きい成功はチームワークによるもの」との紙が貼られているのが目につく。それぞれ、日本的経営の象徴ともいえる理念である。
上海佐竹は2007年に4億円だった売上高が11年は10億円にまで伸びた。経常利益率は2桁台を維持。すでに親会社の日本側に累計で7億円配当した。
郭、労、周、杜の各氏に共通するのは、いずれも大の親日家ということだ。そして、そうした親日家たちを発掘し、現実のビジネスの場に持ってきたのは日本人ではなく、中国人だった。
東氏の「日僑待望論」を引き合いに出すまでもなく、グローバル化に際してのネットワークの重要性は明らか。だが、きっかけは、案外目立たないまま、足元に潜んでいるのではないか。
郭氏は、東方貿易グループの事業拡大だけでなく、「中国に進出する日本の中小企業がしっかり利益を出せるように指導するビジネスにも挑戦したい」と言う。すでに用地を取得し、民間投資会社との共同出資で工業団地運営企業を07年に設立している。
こうした「日中の懸け橋」的存在をどこまで生かせるかは、いや応もなく海外進出という荒波に巻き込まれつつある日本の中小企業にとって、重要な課題となる。
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■内陸シフト、対中投資第4次ブーム
日本の対中直接投資の推移は、一般に4つの段階に分類されることが多い。
第1次ブームは1980年代後半から始まった。投資誘因は、もっぱら安くて優秀な労働力。日本で円高が進行する一方、中国では経済特区や外資優遇策が整備されたことが、ブームを生んだ。進出先は、積極的な誘致策を取った大連などが中心、主な業種は繊維、雑貨、食品加工などだった。
第2次ブームは90年代前半からアジア金融危機が吹き荒れる97年ごろまで。電気・機械メーカーが生産拠点を中国に求める動きが活発化し、対中投資は急激な伸びをみせた。香港の後背地でもある珠江デルタが脚光を浴びたのもこのころ。
第3次ブームは、2001年の中国のWTOの加盟を契機にさまざまな規制が緩和された2000年代前半から始まった。生産拠点としてだけでなく、販売拠点としても位置付けられ、進出業種も自動車、電気、機械、化学、さらには研究開発拠点としての位置付けもされるように。地域的には、上海の急激な発展に呼応するかたちで、長江デルタが中心となった。
そして、リーマン・ショックを経て、第4次ブームの到来かと指摘されているのが現在だ。環境技術をはじめ先端技術が集まる。コスト面での優位が薄れた沿岸部から、内陸部へシフトしつつあるのも特徴だ。
(この記事は経済総合(フジサンケイ ビジネスアイ)から引用させて頂きました)
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