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◇家族守るために教訓生かして
広島から子供たちに残す脱原発後の社会を考えようと、講演会「聞こうよ福島のはなし 原発事故後の日々の暮らし」が21、22両日、東広島、福山、三原各市であった。福島県二本松市のNPO法人「りょうぜん里山がっこう」事務局長、関久雄さん(60)が、「避難すべきか、残るか」「福島県産の農産物を食べるべきか、食べないべきか」など、揺れるフクシマの人々の現状を解説。参加した市民は、ヒロシマからできることを共に考えた。【中尾卓英】
三原市中央公民館(同市円一町)で22日あった会は、県内の有機農業者や中学校教諭、主婦、若者のほか震災後、福島県から県内に避難した母親ら約90人の熱気に包まれた。
関さんは、大地震・津波に加えて東京電力福島第1原発事故の多重災害に見舞われた3月11日から約半月間の混乱を「とにかく逃げようとしたが、スーパーやガソリンスタンドには何も残っていなかった」。そして「これで最後かもしれない」という思いで、県庁職員の長男(24)を除く妻と次男(21)、高校2年の長女、小学6年の三男を一人ずつ抱きしめ、埼玉県所沢市の親類宅に送り出した。
4月が近づくと国や県、専門家らの「学校や仕事が再開する」「年間100ミリシーベルト以下の被ばくなら大丈夫」という安全キャンペーンで、避難先から福島に帰る家族が相次いだ。関さんの妻子も学校や仕事の都合で二本松市に。その後も相次ぐ余震に避難を促したが、「もう二度と離ればなれになるのはいやだ」という子供の訴えに返す言葉がなかった。
4月、福祉施設からNPO職員に転職した関さんは、放射線測定器の手配や内部被ばくに耐える体作りなどの情報収集を続けた。周囲から「神経質だね」「心配なら外国に行けばいいじゃない」と白眼視されながら、“希望の種”を探した。そして、チェルノブイリ原発事故後も企画された、夏・冬休みに福島の子供たちを県外に連れ出す「疎開キャンプ」を企画した。
8月、新潟県佐渡島での約2週間のキャンプには小学生から高校生まで30人が参加。マスクなしで気兼ねなく食事を作って食べ、海水浴や野球、花火、篠笛演奏などに汗を流し、本来の姿を取り戻していった。福島に戻る前の交流会。子供たちは「外で遊べない」「部活動ができない」「友達が転校していやだ」「げんぱつころす」などの声を上げた。
震災発生から10カ月半。福島では今、「対立が生まれている」。校庭や自宅周辺の除染作業に参加しなければ「非国民」と後ろ指を指され、結婚、就職差別などに遭わないように戸籍を移す人も身近にいる。「ヒロシマ、ナガサキの悲劇が繰り返されている」。福島県産は扱っていませんという掲示が首都圏で増える中、昨年末、二本松市、伊達市で農家の自殺が相次いだ。「残る人、逃げる人、支援物資を食べる人、口にしない人、非難する人、批判された人、みんなが傷ついている」
最後に、関さんは広島滞在中に創作した詩「うらやましい」(※毎日JPに全文を掲載)を朗読し訴えた。「これ以上、福島の人々が分断されないよう、政府や県に正しい情報を開示するよう呼びかけてください。福島の子どもたちを放射能から守るためにできることを考えてください」。そして、「みなさんの地元で地震が起こったら、島根や伊方原発で事故が起こったらどうするのか。ガソリンやマスクをどのように調達するのか。家族を守るために、福島の教訓を生かしてください」と呼びかけた。
1月24日朝刊
(この記事は広島(毎日新聞)から引用させて頂きました)
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広島から子供たちに残す脱原発後の社会を考えようと、講演会「聞こうよ福島のはなし 原発事故後の日々の暮らし」が21、22両日、東広島、福山、三原各市であった。福島県二本松市のNPO法人「りょうぜん里山がっこう」事務局長、関久雄さん(60)が、「避難すべきか、残るか」「福島県産の農産物を食べるべきか、食べないべきか」など、揺れるフクシマの人々の現状を解説。参加した市民は、ヒロシマからできることを共に考えた。【中尾卓英】
三原市中央公民館(同市円一町)で22日あった会は、県内の有機農業者や中学校教諭、主婦、若者のほか震災後、福島県から県内に避難した母親ら約90人の熱気に包まれた。
関さんは、大地震・津波に加えて東京電力福島第1原発事故の多重災害に見舞われた3月11日から約半月間の混乱を「とにかく逃げようとしたが、スーパーやガソリンスタンドには何も残っていなかった」。そして「これで最後かもしれない」という思いで、県庁職員の長男(24)を除く妻と次男(21)、高校2年の長女、小学6年の三男を一人ずつ抱きしめ、埼玉県所沢市の親類宅に送り出した。
4月が近づくと国や県、専門家らの「学校や仕事が再開する」「年間100ミリシーベルト以下の被ばくなら大丈夫」という安全キャンペーンで、避難先から福島に帰る家族が相次いだ。関さんの妻子も学校や仕事の都合で二本松市に。その後も相次ぐ余震に避難を促したが、「もう二度と離ればなれになるのはいやだ」という子供の訴えに返す言葉がなかった。
4月、福祉施設からNPO職員に転職した関さんは、放射線測定器の手配や内部被ばくに耐える体作りなどの情報収集を続けた。周囲から「神経質だね」「心配なら外国に行けばいいじゃない」と白眼視されながら、“希望の種”を探した。そして、チェルノブイリ原発事故後も企画された、夏・冬休みに福島の子供たちを県外に連れ出す「疎開キャンプ」を企画した。
8月、新潟県佐渡島での約2週間のキャンプには小学生から高校生まで30人が参加。マスクなしで気兼ねなく食事を作って食べ、海水浴や野球、花火、篠笛演奏などに汗を流し、本来の姿を取り戻していった。福島に戻る前の交流会。子供たちは「外で遊べない」「部活動ができない」「友達が転校していやだ」「げんぱつころす」などの声を上げた。
震災発生から10カ月半。福島では今、「対立が生まれている」。校庭や自宅周辺の除染作業に参加しなければ「非国民」と後ろ指を指され、結婚、就職差別などに遭わないように戸籍を移す人も身近にいる。「ヒロシマ、ナガサキの悲劇が繰り返されている」。福島県産は扱っていませんという掲示が首都圏で増える中、昨年末、二本松市、伊達市で農家の自殺が相次いだ。「残る人、逃げる人、支援物資を食べる人、口にしない人、非難する人、批判された人、みんなが傷ついている」
最後に、関さんは広島滞在中に創作した詩「うらやましい」(※毎日JPに全文を掲載)を朗読し訴えた。「これ以上、福島の人々が分断されないよう、政府や県に正しい情報を開示するよう呼びかけてください。福島の子どもたちを放射能から守るためにできることを考えてください」。そして、「みなさんの地元で地震が起こったら、島根や伊方原発で事故が起こったらどうするのか。ガソリンやマスクをどのように調達するのか。家族を守るために、福島の教訓を生かしてください」と呼びかけた。
1月24日朝刊
(この記事は広島(毎日新聞)から引用させて頂きました)
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