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松下幸之助といえば世界的な電機メーカー・パナソニック(旧.松下電器産業)の創業者であり、晩年には松下政経塾を創設した人物。会社経営と社会のあり方、そして人の生き方にも、深い洞察を遺したことで知られている。しかし彼は、決して起業に恵まれた環境に育ったわけではなかった。松下幸之助は、なぜ自らの事業を興し、どのように会社を成長させていったのか。そこには、現在の若手ビジネスマンにも役立つヒントがあった。
◇街を走る市電をみて電気の重要性を直感
松下幸之助は、9歳から火鉢店で丁椎奉公を始め、その3カ月後には「五代(ごだい)自転車商会」という自転車店で奉公を始めた。当時の自転車の位置づけは、いまでいう自動車のようなもの。その多くは輸入品で、値段も1台100円から150円ほどした。これはいまの金額にするとおよそ4~50万円というから、かなり高価な商品だということが理解できるだろう。幸之助はこの自転車店で、およそ6年間奉公をしている。
当時の流行の先端の商品に触れていたのだから、そのまま奉公を続けてもおかしくはない。ゆくゆくは番頭になり、さらにはのれん分けを認めてもらい、自分の店をもつ……。この時代の多くの人なら、きっとそんな未来を思い描いたに違いない。
だが、松下幸之助はそうはしなかった。きっかけは、自転車店での奉公の使いの途中、当時大阪の街を走り始めた市電を目にしたことだった。その新しさ、便利さに、幸之助は「やがて自転車は電車にとって代わられるだろう」と直感し、「これからは電気の時代になる」と確信する。彼は、電気に携わる仕事に関心をもつようになった。
悩んだ末に、彼は転職を決意する。そして、1910年、15歳のときに五代自転車商会を離れ、臨時でセメントの運搬工を務めたのち、大阪電燈(のちの関西電力)に入社したのだった。
親の命で奉公に出された幸之助にとって、この転職は初めて自らが下した大きな決断だったといえる。このとき幸之助が自分の直感に従っていなければ、大企業家・松下幸之助は誕生していなかったかもしれない。
【 ベンチャー起業家・松下幸之助」に学びたいポイント 】
◎現状で判断せず、自分のひらめきに従おう!
***
◇主任に否定されても自分の可能性を信じる
大阪電燈に勤め始めてから、幸之助の実務的な能力が本格的に開花する。当初は見習い工としての入社だったが、3カ月後には工事担当者に昇格した。そして、22歳のころには、各担当者のやった仕事を翌日、検査してまわる検査員という役職に就く。
だが、この検査員に昇格したことが、幸之助が起業家に転じるきっかけの1つになった。検査員は責任は重いが楽な仕事で、少し道順のよいときは9時ごろ会社を出て2~3時間で済んでしまうこともあった。憧れてなった検査員の仕事ではあったが、幸之助には物足りなかったのだ。
じつは検査員になる少し前に、幸之助は電気ソケットの改良をしてみたいと考え、いろいろ工夫をしていた。自ら試作品をつくり、上司である主任に、いまでいうプレゼンテーションを行なったのである。
自信はあった。ところが、そのソケットをみた主任から、「まだあかんな。もっと工夫せな」とにべもなく突き返されてしまう。
のちになって幸之助は「あとあと考えてみると、自分がつくった試作品にはいろいろと問題があった」と述懐しているが、このときはそうではなかった。夜も眠れないほど悔しい思いをしたという。そして検査員の仕事に物足りなさを覚えてから、このソケットのことをいつとはなしに考えるようになった。それが独立しようという決意につながる。
意外に思えるかもしれないが、松下幸之助は勝算があって独立を決めたわけではない。手許にあったお金は貯金と退職金を合わせて95円ほど。現在の価値にしておよそ150万円弱の金額である。当時でも満足な機械1つ買える資金ではない。
しかし彼は、安泰であっても退屈な毎日を送るより、自らの創意工夫を活かせる道を選んだのだ。松下幸之助の起業は文字どおりベンチャー(冒険)だったことが理解できるだろう。
【 ベンチャー起業家・松下幸之助」に学びたいポイント 】
◎「安泰」よりも「充実」をめざそう!
(この記事は経済総合(Voice)から引用させて頂きました)
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◇街を走る市電をみて電気の重要性を直感
松下幸之助は、9歳から火鉢店で丁椎奉公を始め、その3カ月後には「五代(ごだい)自転車商会」という自転車店で奉公を始めた。当時の自転車の位置づけは、いまでいう自動車のようなもの。その多くは輸入品で、値段も1台100円から150円ほどした。これはいまの金額にするとおよそ4~50万円というから、かなり高価な商品だということが理解できるだろう。幸之助はこの自転車店で、およそ6年間奉公をしている。
当時の流行の先端の商品に触れていたのだから、そのまま奉公を続けてもおかしくはない。ゆくゆくは番頭になり、さらにはのれん分けを認めてもらい、自分の店をもつ……。この時代の多くの人なら、きっとそんな未来を思い描いたに違いない。
だが、松下幸之助はそうはしなかった。きっかけは、自転車店での奉公の使いの途中、当時大阪の街を走り始めた市電を目にしたことだった。その新しさ、便利さに、幸之助は「やがて自転車は電車にとって代わられるだろう」と直感し、「これからは電気の時代になる」と確信する。彼は、電気に携わる仕事に関心をもつようになった。
悩んだ末に、彼は転職を決意する。そして、1910年、15歳のときに五代自転車商会を離れ、臨時でセメントの運搬工を務めたのち、大阪電燈(のちの関西電力)に入社したのだった。
親の命で奉公に出された幸之助にとって、この転職は初めて自らが下した大きな決断だったといえる。このとき幸之助が自分の直感に従っていなければ、大企業家・松下幸之助は誕生していなかったかもしれない。
【 ベンチャー起業家・松下幸之助」に学びたいポイント 】
◎現状で判断せず、自分のひらめきに従おう!
***
◇主任に否定されても自分の可能性を信じる
大阪電燈に勤め始めてから、幸之助の実務的な能力が本格的に開花する。当初は見習い工としての入社だったが、3カ月後には工事担当者に昇格した。そして、22歳のころには、各担当者のやった仕事を翌日、検査してまわる検査員という役職に就く。
だが、この検査員に昇格したことが、幸之助が起業家に転じるきっかけの1つになった。検査員は責任は重いが楽な仕事で、少し道順のよいときは9時ごろ会社を出て2~3時間で済んでしまうこともあった。憧れてなった検査員の仕事ではあったが、幸之助には物足りなかったのだ。
じつは検査員になる少し前に、幸之助は電気ソケットの改良をしてみたいと考え、いろいろ工夫をしていた。自ら試作品をつくり、上司である主任に、いまでいうプレゼンテーションを行なったのである。
自信はあった。ところが、そのソケットをみた主任から、「まだあかんな。もっと工夫せな」とにべもなく突き返されてしまう。
のちになって幸之助は「あとあと考えてみると、自分がつくった試作品にはいろいろと問題があった」と述懐しているが、このときはそうではなかった。夜も眠れないほど悔しい思いをしたという。そして検査員の仕事に物足りなさを覚えてから、このソケットのことをいつとはなしに考えるようになった。それが独立しようという決意につながる。
意外に思えるかもしれないが、松下幸之助は勝算があって独立を決めたわけではない。手許にあったお金は貯金と退職金を合わせて95円ほど。現在の価値にしておよそ150万円弱の金額である。当時でも満足な機械1つ買える資金ではない。
しかし彼は、安泰であっても退屈な毎日を送るより、自らの創意工夫を活かせる道を選んだのだ。松下幸之助の起業は文字どおりベンチャー(冒険)だったことが理解できるだろう。
【 ベンチャー起業家・松下幸之助」に学びたいポイント 】
◎「安泰」よりも「充実」をめざそう!
(この記事は経済総合(Voice)から引用させて頂きました)
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